1月のおはなし ~寛永寺 その⑦~

寛永寺は江戸の比叡山延暦寺であり、德川将軍家と幕府の祈願寺(きがんでら)として発足したお寺です。
しかし寛永寺を知る多くの方は、寛永寺は芝の増上寺(ぞうじょうじ)と並び德川将軍の墓所があるお寺、という認識でいらっしゃるのではないでしょうか。今月はこの辺りを掘り下げていきます。

そもそも德川家のご先祖は三河を地盤に定めて以降、浄土宗を宗旨としていました。
それは家康公も同様で、三河から関八州に移封された際に、今後は増上寺(浄土宗)を菩提寺とすると定めました。これが1590年代のことです。
しかしその後、家康公は後に寛永寺を創建する天海僧正と出会い、天台宗に深く帰依(きえ)することとなります。
そして家康公の没後、幕府による家康公の神格化を巡って天海僧正はさらに幕府の信頼を得て名声を上げる…これは以前お話ししたことですね。
その後、二代の秀忠公が増上寺で葬儀を執行し、増上寺に墓所(霊廟)が造営された初めての将軍になります。
この時点では将軍の回向(えこう=葬儀や年回法要)は増上寺で執り行うと明確に分けられており、寛永寺はあくまで祈願(きがん=神仏に様々な願いをする事)をする寺であって、回向をする寺ではなかったのです。

しかし三代将軍の家光公が、ある遺言を残します。
それは自身の葬儀は寛永寺で執り行い、墓所は日光に造営するように、という内容でした。
家光公は将軍後継を巡る経緯などで、両親である秀忠公夫妻と折り合いが悪く、その反動か家康公と天海僧正への追慕(ついぼ)は並のものではなかったそうです。
例えば、秀忠公の造営した日光東照宮(当時は東照社)を秀忠公の没後に大規模改修。
また病気の天海僧正へ実際に足を運んでのお見舞いは、将軍が一介の僧侶を見舞うことなど、当時としては異例のことであったそうです。
このような思いがあって、天海僧正が創建した寛永寺で葬儀を執り行い、家康公と天海僧正の両者が眠る日光山に自身も眠りたいという遺言となったのでしょう。
遺言はその通りに執行され、ここで初めて寬永寺で将軍の葬儀が執り行われたのです。

しかし日光山は江戸から遠く、簡単に墓参に行ける距離ではありません。
東照宮は江戸城内や寛永寺をはじめ、全国各地に分社が造営されたので参詣には困りませんが、家光公はそうはいかないのです。
そこで参詣用の墓所として、葬儀を執り行った寬永寺に家光公の廟所(大猷院霊廟)が造営されたのです。
残念ながら廟所は江戸時代中期に落雷で焼失してしまいましたが、墓前に奉納された石灯篭が、今も境内に多数残り面影を伝えています。

東叡山寛永寺 教化部