檀信徒の皆さまとお話ししていると「私は月に何度もお堂にお参りに来ています」や「毎月の命日と盆彼岸、年末年始は欠かさずお墓に手を合わせています」といった話を伺います。
皆さんとても信心と供養の心が篤く素晴らしいです。
しかし多くの方がその後に「住職これで良いでしょうか?足りていますかね?」と続きます。やはりお坊さんに太鼓判をもらって安心したいのでしょう。
しっかりお参りをなさっている方々ですので「素晴らしい心がけです。十分ですよ」と言って差し上げたいところですが、そうは申せません。
なぜなら、これで十分だと思えば、多くの方はそれ以上を目指さなくなってしますからです。
仮に回数の多さだけを信心の基準にした場合どうなるでしょうか。
月に1回より週に1回、いや年に100回、いやいや毎日これでどうだ!ならば一日三度のお参りの方が上だ!えーいいっそお坊さんになって寺に住んでしまえ!!
なんだか落語オチのようになってしまいましたが、要はキリがない訳です。
年に一度だけお参りをする方と、年に百回お参りをする方のどちらが偉いかと優劣をつけることは出来ません。家からお墓までどのくらいの距離があるのか、その人に自由にできる時間がどのくらいあるのか、条件は人それぞれです。
つまり各々がおかれた状況や条件の中で、無理なくできる範囲で、かつ怠けずにお参りをすることが肝心なのです。
これは一隅を照らす運動にある「あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして一隅を照らして下さい」とも通じるものでしょう。
このくらいで十分だろうという気持ちでは慢心に繋がりますし、逆に足りぬ足りぬと卑下しすぎては負担になります。ですので冒頭の質問に対しては「ご自身の心の中に答えがありますよ」と申し上げるのです。
自己を省みて¨丁度良い¨とご自身が納得してお参りする姿は、きっと仏さまやご先祖様の目にも素晴らしく映る事でしょう。
東叡山寛永寺 教化部
10月のおはなし ~これで良いより丁度良い~