10月のおはなし ~寛永寺 その⑮~

前回に引き続き寛永寺のお堂を個別にご紹介していきます。

これまで上野の山=現在の上野公園周辺にあるお堂を紹介してきましたが、寛永寺には上野以外にもお堂があるのをご存じでしょうか?

それは「寛永寺別院(かんえいじべついん)浅間山観音堂(あさまやま かんのんどう)」といい、群馬県と長野県にまたがる浅間山の中腹に所在します。
それではなぜ、寛永寺は浅間山に別院があり、いつ建てられたのでしょう。

江戸時代の天明3(1783)年、浅間山が大噴火を起こし、多くの方が犠牲になりました。
その際に最大の被害を受けたのが浅間山の麓にある鎌原村(かんばらむら)でした。
当時の鎌原村には寛永寺の末寺として、浅間山明神の別当寺である延命寺という寺がありましたが、このお寺も噴火により埋没してしまいました。
そのため噴火罹災者の救済を、時の寬永寺住職である「輪王寺宮(りんのうじのみや)公延法親王(こうえんほっしんのう)」が命じたと言われています。
尚、この逸話は「浅間山噴火大和讃(だいわさん)」として今日まで語り継がれ、地元の「鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)」では、有志による和讃会により、毎年被災者供養が行われています。

このようなご縁で、昭和33(1958)年5月、「鬼押出し園(おに おしだしえん)」内に、寛永寺より聖観世音(しょうかんぜおん)菩薩を迎え、浅間山観音堂が創建されました。
以来、観音堂ではあらゆる自然災害罹災者の慰霊と被災地の復興を祈願し続け、今日に至っています。
中でも毎月18日は本尊「聖観世音菩薩」のご縁日として縁日法要を、特に4月と11月の18日は寛永寺一山住職による春秋の大法要を執行しています。
また、毎年7月8日には前述の鎌原和讃会のご協力の下、天明大噴火慰霊法要の実施など、年間を通じて様々な法要や行事を催しています。

余談ですが、鬼押出しという呼び名は、浅間山が噴火した際、まるで山に棲む鬼がゴロゴロと岩石を押し転がしたかのようだったことにちなむと言われており、その結果、世界三大奇勝の一つにも数えられる「浅間山 鬼押出し」の絶景が形作られたのだそうです。

是非、大自然に触れると共に、長年にわたり浅間山と噴火犠牲者への祈りを続ける浅間山観音堂にお参りを頂きたく、ご紹介申し上げます。

東叡山寛永寺 教化部

観音堂惣門越しに雄大な浅間山を望む