祈祷寺としてはじまった寛永寺は、德川将軍家の菩提寺としての役目を加え、さらに元禄から宝永(17世紀ごろ)には境内をさらに拡張し、塔中寺院(たっちゅうじいん)は三十六院を数え、その寺域は三十万五千坪余に及びました。
ちなみに東京ドーム〇個分で言うと、なんと21個分だそうです。
もちろん境内の全域が参拝可能だったわけではありませんが、広大な境内に立ち並ぶ壮麗な伽藍(がらん)と四季を通して目を楽しませてくれる草花が、参拝者を楽しませていたことでしょう。
当時の寛永寺は江戸を訪れる人々にとってのテーマパークだったのかもしれません。
しかしこの景色は幕末の内乱で一変します。
明治維新の折、江戸市中で唯一の戦場となったのが寛永寺境内でした。
德川慶喜公は鳥羽伏見の戦いの後、江戸城の無血開城までの二ヶ月間を寛永寺塔中の大慈院(だいじいん)で過ごしました。
その際、慶喜公の警護を目的とする集団・彰義隊(しょうぎたい)が寛永寺に駐留します。
そしてこの彰義隊の一部は、慶喜公が出立した後も居残りを続けます。
そこに目を付けた新政府軍が、士気高揚などを狙って戦いを仕掛け、寛永寺境内において上野戦争(=彰義隊の戦い)が勃発したのです。
その結果、根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとした多くの伽藍が灰燼に帰し、さらには境内の没収と山外への退去令、神仏分離令、輪王寺宮の還俗(げんぞく)等の措置により、寛永寺はあわや廃寺という壊滅的打撃を受けました。
その後、旧境内地の中央部分である約十八万坪は、日本で最初の公園地である上野公園へと姿を変えます。
そして寛永寺は明治八年に僅かに焼け残った堂宇と十分の一以下となった境内の返還を受けて、明治十年には塔中寺院の一つであった大慈院に根本中堂を再建することで、現在の寛永寺の姿がみられるようになりました。
しかし、太平洋戦争の折には不忍池弁天堂や塔中寺院の一部、さらには明治維新の折には被害の無かった将軍霊廟も御霊屋などの建造物を焼失します。
このような困難にも德川家と協力して檀徒を広く募ることで、今日の寛永寺へと至りました。
間もなく花見の季節を迎え多くの方が上野公園を訪れることかと存じます。桜を愛でると共に、上野の山の今昔を伝える寛永寺にもお参りいただければありがたく存じます。
東叡山寛永寺 教化部
3月のおはなし ~寛永寺 その⑨~